荒ぶる女子の実習日誌

不登校になった自閉症スペクトラム持ちの実習助手の日常を綴ります。クラシック音楽と写真が好き。カフェ巡りとか小説とかエッセイやってます。ちなみに創価学会員です。

結井はなぜ不登校に??vol.1

こんにちは。昨日は映画行ったり色々出かけてて面倒くさくなっちゃったので←

ブログ更新できませんでした。まあこんなもんです、私w

さて、今日は気を取り直して、自己紹介も兼ねて、私が不登校になった経緯を説明したいと思います。

 

 

自己紹介すると、私は、今、岐阜県のとある工業高校の機械系学科で実習助手をしています。現在は不登校中、まあ訳あってお休み中ですが笑

この実習助手とは何かといいますと、要は実業高校で実習や製図など、学校の先生が一人ではできないことをサポートする、技術的職員のことを指します。

ちなみにこの実習助手教員免許が必要なく、採用試験は高校生から受験できます。ジャンルは工業機械系、電気・電子系、建築・土木系、商業、農業、理科があるそうです。

私は大学で機械工学をやっていたので、機械系で受験し、今に至ります。

しかしね、この助手合格までの間…。

いくつもの難関がありました。例を上げると上司からのパワハラ、職員からのイジメ、バッシング、教員の昭和な文化に対するカルチャーショック、自分の過去のトラウマによるフラッシュバックからのPTSDなど。もちろん発達障害による影響もあったんですが、この合格に辿り着くまでに、心身ともに半殺しにされました。

では、私がどうやって半殺しにされたのか、ご説明いたします。

 

私は、もともと愛知県内のとある工業系大学の機械学科を卒業してから、同県内の工業高校の自動車科で、期限付常勤講師というものをしていました。

この期限付常勤講師っていうのは、要は契約社員のような身分の学校の先生を指します。

教員っていうのは、各自治体が年一度行う教員採用試験に合格すると、教諭という正規の学校の先生になれます。しかし、教員採用試験に落ちてしまうと教諭にはなれません。が、学校の職員が異動、退職、休職などによって不足した場合は、落ちた人も年契約ではありますが、教諭と同じ立ち位置になれます。しかし、採用試験には受かっていないので、呼ばれ方は、講師となります。給料の等級は教諭より1つ下がります。

その、講師という仕事をしていました。が、しかし。

 

この講師ってのが本当にきつかった…。

 

というのは、私には(当時)3つの障害がありました。三重苦ってやつですね。

ちなみにこの時はまだ自閉症スペクトラムの診断は受けていなかったので、それによる障害は除外してお話します。

 

まず1つ目。

工学部機械学科で学んだことはほとんど役に立たない。大学と工業高校は別世界。

これは、普通科高校を出ている人が工業の教員になったとき、必ずぶつかる壁だと思います。

まあ、材料系や原動機系、製図なら大丈夫なんですが、機械設計という機械系の力学を勉強する教科は、大学ではやらないことがたくさん出てきます。私も、教員採用試験の勉強をして、講師をやって、初めて知ったことが多かったです。大学で習った応力、はりの解析、断面係数、ねじや歯車など機械要素に関することは、機械設計がある程度進まないと出てきませんでした。

さらに、情報技術基礎という、コンピュータの仕組みやプログラミングについて学ぶ教科もあります。

これがつらかった。大学ではあまり突っ込んでやらなかった勉強…というか、プログラミングなんて、勉強したかもどうか怪しいものだったから、私は一から自分で勉強したことをそのまま教えるって感じでやるのが精一杯でした。

そして最大の難問が、実習です。

工業高校出身の先生は経験値があるので何とかなるんですが、普通科高校出身にとっては全くの未知の世界。

お恥ずかしい話ですが、最初は、ノギスやマイクロメータで作品の計測さえできませんでした。

さらに自動車科は機械科とは違い、簡単に言うと、自動車整備士を育成する学科なので、実習も自動車整備に関するものが多い。しかし、その中でも、私は幸いにも受け持った実習がほとんど機械系のものばかりだったため、まだ助かってました。しかし、助かったとはいえ、実習経験値ゼロの私には、きつい闘いでした。

しかも、私が勤めたところはあまり詳しく実技指導をしてもらえず、授業を見たり、自分でやってみて自分で覚えろという風習だったため、講師、特に実習初心者には非常に働きづらいところでした。

 

2つ目は、

差別が酷い

工業という教科の中でも、機械系というのは、超男性社会です。

建築・土木系や化学系、デザイン系なら女性の教員、実習助手も多いのですが、機械系は特に男性が多い。

女性教員は、県内でも片手で数えられるかな?ってレベルで少ないです。

しかも私が勤めたその学校は当時、すべての工業科職員を集めても、女性教員は私しかいませんでした。

なので、女が大学行って、生意気に教員やってる姿が気に入らない人もいたと思います。

さらに、これは他の学校でも、男性女性、年齢関係なく行われた差別なのですが、正規職員が非正規職員を差別するということもありました。

別に正規職員だからってなんにも偉くありません。せいぜい福利厚生がしっかりしてて、定年までちゃんと職が保証されているくらいなのに、嫌らしい態度をとってくる人が大勢いました。

本当に偉いのは校長とか教育委員会の委員長とか、そういう人たちなんですけどね。その女性差別、非正規差別によって、かなりダメージを受けました。当時の教頭や校長に取り合っても、私が頑張るしかないと言われるだけで、何も対策を打ってくれることはありませんでした。その他にも、私が初心者なのにベテランと同レベルのことを周りから要求され、そのプレッシャーに耐えられなくなって、学校の職員室に入れなくなったり、自殺を考えたこともあります。

差別って怖いですね。

 

3つ目は、

昭和な文化がいつまで経ってもアップデートされない。

これは昨今の教育現場を取り巻く大きな問題の一つだと思います。

いつまでも昔の文化にとらわれた教員が考え方をアップデートせず、いつまでも昔のやり方にこだわって、それを最新の教育などを学んだ若者に強要し、結果、ついていけないと判断した若者が心を病んで休職する、教員を辞めてしまう。こういったことが最近はとても多いと思います。

私もこの昭和地獄に落とされて、体を壊しました。

最近になってようやく、定時退校が一般化…というかそれが当たり前なんですけど、認められる時代になりつつはあります。しかし、私が講師で勤めた学校の、私が所属していた自動車科は、「下っ端(つまり講師で一番若い私)が一番先に帰るなんてありえない」という考えで、何かよく分からない残業をたくさんさせられたような記憶があります。仕事はすでに終わっているのにも関わらず、ですよ?しかも、私が職員室を最後に閉めるようにということをよくさせられました。おかげで毎日寝不足、他にも生徒からのイジメや上司、他の職員からのパワハラやイジメでも心身ともに疲れ切っていました。

多分、推測すると、私の所属していたその学科は大ベテランが非常に多かったことから、ベテランが帰る前に新人がしれっと仕事を終わらせて帰るのが気に入らなかったのでしょう。

実際、仕事をしながら1日学科内の様子を観察していたら、他の職員は、仕事がたくさんあってもタスクマネジメントがちゃんとできていなくて、いつまで経っても仕事が終わっていないということが見られました。

私は、手帳や紙にやることを書いて、計画的にことを進めていたので、仕事はかなり早く終わっていました。

後に友人に仕事のことを話して手帳を見せた時、「ここまでできる新人って相当優等生だぞ」と言われ、そこでやっと「私は別に仕事ができないんじゃなくて、他の人ができていないから、できないように仕向けられていたのだ」

そして、「私のような非正規、しかも女に、仕事をさっさと進められるのが気に入らなかったから、変なイジメやパワハラをしたのだな」と気が付きました。

しかし、そんな昭和な文化を、管理職含めて誰もアップデートしようとはしませんでした。

みんな、アップデートするのを恐れるように今までのやり方にこだわって、今のままがいいと言って、頑なに最新のものを取り入れるのを避けていました。多分、アップデートしたら、やり方が変わって面倒だし、苦情が来るのが怖かったのだと思います。なので、民間企業で働く友人や親からすると、学校内部というのはかなり異質なものだということが分かりました。

 

この三重苦に耐えかね、生徒たちからのバッシング、教員たちからのパワハラやバッシングもあって、私はここで1回目の不登校になりました。赴任してから10ヶ月ほどのことでした。

朝、学校の最寄り駅で足が止まって学校に行けなくなり、学校に休む連絡をして、そこから任期満了の日まで不登校になりました。

 

では、不登校の最中、私はどうしていたのか?

それは次の記事でお話します。それではひとまず。