結井はなぜ不登校に?vol.4
こんにちは、結井です。
週末は病院行ってから彼氏とカフェったり、家族と伊勢に出かけたりして、昨日は心身ともにダウンしてしまったので、更新できませんでした。ごめんなさいm(_ _;)m
金曜日の一人暮らし先の地区であった座談会で、「池田先生のお誕生日、1月2日を目指して頑張ろう!」という総県婦人部長のお話を受けて、私も「1月2日までにブログを50回更新しよう!」と決めたばかりなのに笑
言うは易し、行いは難しですね。果たして、実現できるのか…。
なんて自分を疑っちゃだめですよね。自分だけは自分の味方でいなきゃ。自分をいじめちゃいけないもんね。
あーでもできるかなあ、不安不安不安…(´-﹏-`;)←
結井ってこういう奴なのでお許し下さい。
あ、そういえばブログ!私が更新していなくても、アクセスが何件かありました。
ありがとうございます(*´艸`*)ますます頑張んなきゃと思います、気持ちだけ笑←
気持ちは高ぶっても、体はなかなかついてこれないのが現状なので、まあ地道にやります。(結論
さて、今回は、いよいよ今年度のお話です。
ぶっちゃけこれを書くのは、今までの記事の中で最も難しいです。
というのは、内容が一部過激なのと、今年度は本当に色々ありすぎたので、まとめるのが非常に難しい。
けど、これを乗り越えないと今後記事が書けないので、いつも以上に気合入れていきます。
「もう二度と愛知県の職員なんてやらない」
そう、捨て台詞を学校に呟いて、私は愛知県の某工業高校の期限付実習助手を早期退職しました。
その後は家でほぼ引きこもっていたような記憶があります。
やがて、岐阜県の採用試験合格者の赴任先交付の日が来たので、岐阜へ配属先はどこか交付されに行きました。その配属先が今勤めているところなんだけど、その場所は知ってる人ほぼ0人の、全く予想外の地区でした。
実際、その後打ち合わせや勤務が始まってから学校の中に入ると、内部は今まで勤めた学校とは全く違って、未知の世界でした。しかも配属学科は機械系になったものの、機械というよりは電子系の方が強くて、機械系学科というよりは「電子科」と言った方がしっくりきそうな学科でした。
自動車科、建設科と畑違いを2度も経験したのに、また畑違いになったことは、正直言ってかなりしんどかったです。しかも、その畑違いで散々パワハラだのいじめだの、精神的にボコボコにされてきた私には、闘う力は残っていませんでした。
「また一からやるの?もう疲れたよ…」というのが正直な感想でした。
でも、ここで負けて休むわけにはいかなかった。というのはですね…。
教員採用試験は、合格したらすぐ正規職員になれるわけではないのです!(助手も含む)
一般的に、「教員採用試験に合格する」、というのは、簡単に言うと「合格者名簿に名前が登録される」というだけで、ここではまだ正規職員になれたわけではない。では、どうすれば正規職員になれるのかというと…。
教諭の場合は、簡単にいうと、かの有名な「初任者研修」を1年やりきったら、正式に正規職員になれます。
一方、実習助手は、「条件付採用期間」という期間を半年間、何も問題なく普通に過ごせば、正規職員になれます。そして、実習助手には初任者研修がありません。まあ4月と11月に研修が1日ずつあるくらい、あとは夏に簡単な中間報告書を書くことくらいで、負担はかなり軽いです。(注:岐阜県の場合です。各自治体によって多少色々異なるかもしれません)
なので、条件付採用期間に長期休暇を取るのは、正規職員に上がるのにマイナスになるリスクがありました。
ましてや、愛知で補欠を病気休暇で逃した私には、そんなことはできなかった。
だから、嫌なことをおしてでも、仕事しなきゃいけなかった。
しかし、その学校はかなり田舎の方にあって、昔からの伝統をかなり重んずる、地域に根ざした学校だったため、文化がかなり古い。最初に勤めて病んだ学校のように、悪い伝統、文化ではないんだけど、古い。
しかも、その学校のある地域が、もともと子どもを一人で机に座らせて勉強させる習慣をつけさせない、子どもは野っ原に出て遊んでおけばいい、という感じの教育方針を取るところだったこともあって、今まで勤めた学校とは違い、「勉強する」ためにある学校ではなく、「暇つぶし」のために行く学校のように感じた。
生徒たちや教員たちからも、「勉強する」という意識はあまりないように感じられた。
まずそれが私と学校の合わなかったところだと思います。
さらに学校は、地域に根ざした学校ということもあって、地域のイベントや部活に対する意識がかなり強い。
ほとんどの部活の後ろに保護者会があるような学校だもんね。保護者も部活には積極的な方々が多かった。
で、私が配属になった部活は…。
吹奏楽部でした。
吹奏楽部は、今問題になっている「ブラック部活」の温床として名高い部活です。
何より活動時間や期間が長い。そんなに長く練習したって、結局生徒たちは影に隠れて遊んじゃってるから、意味ないと思うんですけどね。
しかも、私。中学生の頃、吹奏楽部だったんです。でも、その吹奏楽部は楽しかったかというと…、
全然楽しくなんてなかった。しかも、ある事情から、私は、ほぼ理不尽同然の扱いを受けていたのです。
それが、私を今の不登校に追いやった元凶でした。
しかも、この年の春、私は、実家を出て岐阜県のとある場所で一人暮らしを始めたので、そのことに関しても知らず知らず心労が溜まっていったのだと思います。
さらに、それだけじゃありません。私は、この年の6月、親知らずの部分切除手術を受けました。
大学病院で2日入院しなきゃいけない手術でした。(この手術はかなり特殊なので、あとで記事起こしますね)
しかも、この手術を受けたのがね…。
吹奏楽部の校外コンサートの3日前。
しかも私が手術したのは下の左右両側。親知らず抜いた人はご存知かもしれないですが、親知らずの下の手術後って、めっちゃ痛い。食事なんてできない。顔は腫れるし…。今思うと、「手術後で体調悪いから、安静にしてたい」って休めば良かったんですけど、顧問だし、大きな校外コンサートだから休めなかったんですよ。
歯が痛いのを鞭打って仕事に行きましたよ。コンサート前日の、リハーサルから。
すると、このリハーサルの間、私に変な感情が湧きました。
楽しそうにリハーサルをやる生徒たちや先生たちに、尋常じゃない怒りや憎しみが湧きました。
何で、私だけいつもお預けなの?
何で私だけいつも痛い思いして、苦しい思いしなきゃいけないの?
家に帰っても、その怒りは消えなかった。むしろ、何かマグマが地の底から湧き上がって爆発するように、私の怒りは爆発した。
普段、私は、そこまで怒りません。でも、この時は本当に不思議だったんだけど、自分でも自分が制御できないほどの怒りと、誰かを傷つけて暴れたいという衝動に駆られました。
自分の部屋の壁を殴り、リビングで暴れようとした。
そして、穏やかに静止しようとする母親(母親は虐待されて育ったので、こういうのは慣れてる)に、父親に怒りをぶつけた。「何で私だけいつもお預けなの?いつも痛い思いして、苦しい思いしなきゃいけないの?」と。
まあ、当然大人だから色々怒られますよね。でも、ここまで私が怒ったのは、訳がありました。
それが、さっきの「ある事情」であり、実は、この後に診断される自閉症スペクトラムも、これと大きく絡んでいました。
その、「ある事情」についてお話します。
私は、小学校4年生くらいから不正咬合と反対咬合の診断を受けて、歯列矯正をやっていました。
ちなみに、不正咬合や反対咬合は、放っておくと歯並びが非常に悪くなって、虫歯や口臭の原因になるだけでなく、体の骨格も歪んできて、偏頭痛やあらゆる病気の原因になります。食事もできなくなります。
なので親は高いお金を払って保険適用外の歯列矯正を受けさせてくれたのでした。
しかし、この歯列矯正がいけなかった。
中学に上がって、私は、興味から吹奏楽部に入りました。しかし、顧問の先生からは難色を示されました。
というのも、「歯列矯正をしている子は、唇や顎に影響するから、金管楽器ができない」のだとか。
(実際そうみたいです)でも、私がやりたかったのはクラリネットやフルートといった木管楽器だったので、やりたいと言ったら、そこでも渋い顔。(ちなみに、木管楽器なら歯列矯正してても影響はないそうです)歯列矯正をしているから、影響のない打楽器をやらせたい、と、最初から乗り気ではなかった。
しかも、木管楽器は人気が高いため、オーディションでパートを決めることになりました。
私は、練習に必死で励みました。そしてオーディション前日には、コンクールで吹く曲が吹けるまでになりました。
周りも、私がクラリネットをやる、と確信していたそうです。でも結果は…。
本番にめっぽう弱い私は、オーディションに落ちてしまいました。そして打楽器へ。
しかし、オーディションに受かった子は、後に部活をサボってばかりで、学校にも来なくなったので、周りも何だそれは状態でした。
私も私で、やりたくない打楽器、しかも中学生の女子ばかりの吹奏楽部は、ジャニーズやら色々、人気アーティストの楽曲ばかりやって、私には興味のない楽曲ばかり。私はこの部活をやっていた時に、市の発表会などで聴いたクラシック音楽にハマり、そこからかなりクラシック音楽に傾倒していたため、部活がかなり苦痛でした。
そして私は楽譜が読めず、絶対音感でしか演奏ができないタイプだったため、現代のようにYouTubeや音楽配信が発達していないその頃は、練習さえも絶望的でした。しかも、打楽器でも、先輩や他のメンツとの相性が悪かったこと、数ある打楽器パートでも、自分がやりたい打楽器には一切当たらなかったことも、かなりきつかった。
でも、他の子たちはみんなやりたい楽器ややりたい楽曲をやって、楽しそうにしていた。
だから、自分でも知らず知らず恨みや妬み、悲しみや寂しさが募っていたんだと思う。
しかも、歯列矯正の治療って、めちゃくちゃ痛いのな。矯正のメンテナンスしたあとは、何日か食事も満足に取れない。豆腐とプリンとゼリーくらいしか食べられない。その繰り返し。
しかも、中学のころはいじめもあった。部活内でもいじめられた。
そのすべてのトラウマが、一気にフラッシュバックした。
自分でも、びっくりした。いじめや理不尽のトラウマって、そのときには何も感じなくても、実は鮮明に覚えていて、10数年経った今でもしっかり残っているんだ、って。
そして、その時には出せなかった感情が、こんなにも激しいものだったとは思わなかった。
自分でも、知らず知らずのうちに、苦しんでいたんだなと思いました。
ふとしたこと、今回は、吹奏楽部と親知らずの手術、が重なっただけで、こんなに強くトラウマがフラッシュバックするなんて…。
だから、いくつか前の記事で書いた「大きなトラウマ」はこのことです。
この時は、自分が自分じゃない感じがして、他の人が乗り移った感じがしました。
それはきっと、中学時代の私が心の底から蘇って、親や周りの人に、悲しみや苦しみを訴えたかったんだと思います。
でもこれは、自閉症スペクトラムのタイムスリップ現象ではなく、複雑性PTSDの発作だったと思います。
実際、これ以外にも、一度発作を起こしたことがあります。
その時は学生時代で彼氏と一緒にいたのですが、彼氏が、急に、昔いじめてきたいじめっ子と輪郭が被って、昔受けたいじめのトラウマがフラッシュバックしたことがあります。
さすがにこの事に異変を感じた親は、その翌日、私がコンサートの仕事に行っている間、精神疾患について調べてくれました。そして、私が家に帰ってきた時、ある一冊の本を見せてくれました。
その本は、「自己愛性パーソナリティ障害」について書かれた本でした。
一緒に本を読むと、書いてある症状がほぼ当てはまりました。(自己愛性パーソナリティ障害に関する話は、また違う記事で書きます)
これはやばい、と思った私は、当時かかっていたメンタルクリニックの主治医に、「自己愛性パーソナリティ障害か検査してほしい」と頼みました。その病院は、名古屋市内にある精神疾患の専門病院の支店のようなところだったので、心理検査をやっていました。そして、すぐ検査を受ける予約を取ることにしました。(心理検査についても、また別の記事にしますね)
そして、出た検査の結果は…?
「自閉症スペクトラムって、知ってる?」
この時でした。私が初めて、自閉症スペクトラム持ちである、発達障害持ちであることが、オフィシャルに発覚したのは。
実はもともと私は、自分が発達障害持ちなんじゃないかと疑っていたことがあります。でも、検査したくても、親や友人から、「思い込みだ」と言われたことや、当時かかっていたメンタルクリニックの主治医が検査してくれなかったことで、検査できなかったのです。
この時、私を縛っていた何かが少し解けました。
そして後に、一人暮らし先の地区の座談会で知り合った、学会の教育部の人の紹介で転院した岐阜県内の精神科専門病院での詳しい心理検査の結果、自閉症スペクトラムであることは、ほぼ確定しました。
しかも、この検査で、私は、衝撃的な結果を知りました。
何と、私は、空間認識能力や視覚情報を処理するのが非常に不得意な代わり、聴覚情報の処理が得意であること、ボキャブラリーが豊富で言語処理が非常に長けていることが分かったのです。
これで、私がなぜあの吹奏楽部で生きづらかったのか、また、その他のことでも、なぜ生きづらかったのか、ほとんど理由が解明されました。
吹奏楽部に関することについてのみ言及すると、私は楽譜(視覚情報)が読めないのを、絶対音感(聴覚情報)で補っていたため、人気アーティストの楽曲に関しては、自分が興味を示さなかったため、聴覚情報がほとんどなく、雲を掴むような練習だったということ。
また、その後の高校時代も、私は学校不適合を起こして高3の3学期はプチ不登校をしたことがあるのですが、その不適合も、この得意不得意と、自閉症スペクトラムが大きく関わっていました。
そうか、私は馬鹿だったんじゃない!私は、自閉症スペクトラムだったんだ!そりゃあ生きづらいわ!
検査結果を受けて、私は、これまで自分を苦しめていた何か大きなものが、ガコンと外れたような気がしました。
26年、とてもしんどかったです。その疲れを感じた私は、1週間ほど病気休暇をもらって3回目の不登校をして少し頭を整理し、その後、10月1日の正規職員登用に、何とかこぎつけました。
しかし、正規職員になった瞬間、それまで私が抱えていた数々の心の疲労が一気に押し寄せました。
一気にブツっ、と何かが切れました。
それからしばらくは、普段なら頼まれてすぐに処理できていたことも、何日も先延ばしにして〆切ギリギリにやっとやる、とか、色んなことが、本当の必要最低限のことしかできなくなっていました。
しかも、追い打ちをかけるように、学科の他の職員が、私が出張でいなかった間に私が生徒と進めていた仕事をすべてひっくり返し、一からまたやり直しにさせていたのを見て、私は、手も足も助けも出せませんでした。
実はこの学校の生徒や職員は、相手が今どんな状態、どんな状況にあるかを考えず、自分のやりたいことや言いたいことをやるだけやったり、言うだけ言ったりする、かなり自分本位な人間が多いところだったのです。
そのことに、一番最初に勤めた学校であったことがフラッシュバックした私は、学会の教育部で実践記録をこれまでの4年間分まとめて64枚の原稿を仕上げた疲労もあってか、働くこと全てに関してやる気が完全に失せ、抑うつ状態になりました。
そしてメンタルクリニックに診査に行き、「もう無理」と訴え、私は4回目の不登校になりました。
それが今です。
私が不登校になった原因は、自閉症スペクトラムによる学校不適合、社会不適合、女性差別や非正規差別などあらゆる差別に関するトラウマによるフラッシュバックと抑うつです。
そして、過去のいじめや理不尽のトラウマも。
よくここまで法を犯したり、自殺せずに生きてこれたなあ、と我ながら思います。
でも、どんなにパワハラや苦しい目にあっても自殺せずにいられたのは、ひとえに学会の皆様の励まし、彼氏の励ましのおかげだと思っています。苦しい時、悲しい時に寄り添ってくれたのは、いつも学会の皆様でした。そして、彼氏でした。
だから、私は、生きています。そして、よく学会で言われる言葉があります。
「今こうやって苦しんでいるのは、いつか、どこかで、同じことで苦しむ人を励ますためだよ。凜香ちゃんにしかできない、偉大な使命があるんだよ」「絶対に大丈夫。祈り続ければ、必ず宿命転換できるからね」
そして、私が大好きな御書の一文があります。
「南無妙法蓮華経は獅子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」
どんな病も、法華経の行者が進む障害になるものか、必ず意味がある。という内容。
実際、私も、自閉症スペクトラムの診断を受けてから、今まで教員をやっていたときのことを振り返って、自分にある法則があることに気が付きました。
それは、「今まで私が面倒を見ていた子ども達は、みんな発達障害持ちだったり、学科教員からはあまり相手にされない目立たない子や、いわゆる変わり者、曰く付きの子の割合が多い」ということでした。
今、工業高校には、女子生徒の入学が増え、女子生徒を大切にしようという風潮が多く見られます。
が、実際に工業科の女性教員として勤めた私の感想兼考察。
「女子生徒はわりと要領がいいので、そこまでちやほやしなくてもいい。それより、要領が悪い、できが遅い、など、目立たない遅れ気味の男子生徒のケアの方が女性教員に求められるニーズである」
実際、それで動いて正解だったことは数多いです。工業科の女の先生は、普段荒っぽい男の先生ばかり相手にしなきゃいけない男子生徒にとって、数少ない、安心できるお姉さんやお母さんのような存在だったりします。
ちなみにこのことに気がついたのは、岐阜で機械科講師をやっていた頃でした。
1年間、愛知での勤務というブランクを挟んで、また岐阜県に戻っても、その法則は成り立ちました。
なので、このことを受けて、私にはある使命感が芽生えました。
「私は、目立たない影の生徒たちを励ますために実習助手になったのだ。理不尽から彼らを守るためにいるのだ」と。
そして、実習助手には、高い専門性が求められます。教諭のように、学級経営や保護者対応をしなくていい代わりに、どっぷり専門教科につかれます。
そしてそれは、自閉症スペクトラムの最大の特徴、「興味を持ったものにはいくらでもエネルギーを注げる」「興味を持ったものには、並大抵ではない関心、知識量、記憶力を持てる」ということが逆に活かせます。
なので、この自閉症スペクトラムの診断は、私にとって勝利を示す診断であったと思います。
それで使命を持って動こうとしたから魔が競い起こり、更にはそれとは別で、今まで耐えたものが一気に来て、動けなくなったんだと思います。
今、この不登校は、私にとって人生の充電期間、メンテナンス期間です。今まで26年間、ずっと無知なまま、無休で必死に走ってきたからこそ、壊れてしまったんだと思います。
だから、なるべく焦らずのんびりと、心の傷や体の疲れを癒し、またいつか、自分で掴んだ先程の使命を全うすべく学会と共に歩いていこうと思います。行けるところまで。
今後は、今の記事に書けなかったこぼれ話や、今の日常について、書いていきます。
以上が私、結井の自己紹介でした。今後ともよろしくお願いします!(о´∀`о)