荒ぶる女子の実習日誌

不登校になった自閉症スペクトラム持ちの実習助手の日常を綴ります。クラシック音楽と写真が好き。カフェ巡りとか小説とかエッセイやってます。ちなみに創価学会員です。

私の活動体験vol.21 戦う、その意味は

今年1年の学会活動を振り返ってみると、今年は、「立正安国論」を多く目にしたような気がする。

立正安国論とは、1260年(文応元年)に日蓮が時の権力者、北条時頼に宛てて書いた手紙のようなもの。皆さんも、学校の社会科の歴史の授業や、日本史の授業、単元で言えば中世時代辺りで習う、「日本の仏教の歴史」(超アバウトでごめんなさい)で一度は聞いたことがあるだろう。だから、立正安国論は、学会が作ったのではなく、日本の歴史にきちんと遺されているものなので、学会員でない人も、安心して見て欲しい。

 

日蓮が生きた時代は、まさに悲惨の2文字で表現されるに相応しい時代だった。

国のあちこちで大地震や大風、洪水などが発生し、その影響で農作物は取れず、人々はバタバタと餓死していく。さらに、そこに追い打ちをかけるように、毎年のように疫病が流行り、人々は飢餓だけではなく疫病にも苦しんでいた。その、先の見えない苦しみから救われたい、と人々はあらゆる方法、宗教にすがって祈祷をしたが何も効果が得られず、ただ苦しんでいるばかりだった。

これは、今のコロナ禍で苦しい世の中にも当てはまるのではないだろうか?

 

今年は、変異株が続々と生まれ、感染者は昨年にもまして増え続け、医療機関は恐ろしいほど逼迫した。

私が普段お世話になっている精神科病院でも、入院病棟でクラスターが発生し、一時外来の診察がストップしてしまったことがあった。主治医に会えない、というのは、患者として心細いものだった。体調が悪い時、不安な時、主治医に会うだけで気がほぐれることがある。それが寸断されるということは、ある意味致命傷である。

さらに、休職中の私には、主治医に書類を書いてもらわなければ自分の生活が成り立たないということもあったので、主治医は大切なライフラインでもあった。

それが寸断されたことで、私の中の自粛に関する意識は変わった。それと、NHKのとあるドキュメンタリー番組を見て、影響されたのもある。それまでは、「オリンピックはやるのに、自粛はさせるのか」という考えもあったけど、きれいに払拭された。

実は、これが現代でいうところの「立正安国論」なのだ。

 

そもそも、立正安国論がどんなことを論じているのかと言うと、「世の中の乱れ方とその対処法」である。

日蓮曰く、世が乱れるのは、まず、誤った思想が世に蔓延ることが原因であり、誤った思想のまま生活するから、本来世の中を守ってくれる諸天善神が離れていって、魔や鬼神が続々と襲いかかってくる、のだそうだ。

当時の「誤った思想」というのは、代表例として、法然が説いた浄土宗が挙げられる。

阿弥陀如来という架空のものを信仰すること、今生きている現世でどうにかしようとするのではなく、阿弥陀如来の力で死後、幸せにしてもらいたい、と祈ることが間違いなのだそうだ。(すっっっごい端折りました。ちゃんと知りたい人は立正安国論読んでね←)

これを現世に置き換えて考えると、どうだろう?

 

現代では、そこまで宗教信仰に励む人は少ないから、全体的な世の中のものの考え方だろうか。

私は、個人的に、「自分さえ良ければ他人なんかどうでも良い」という考えが蔓延っているからいけないのではないかと思う。私自身も、この「自分さえ良ければ他人なんかどうでも良い」という考えに苦しんだ過去を持つ。でも、この立正安国論は、はるか400年以上も前に書かれたものなのに、「自分さえ良ければ」という考えに警鐘を鳴らし、厳しく批判している。

私は、今年、女子部の会合でこのことを学んだ時、頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。

今までは、私が「自分さえ良ければ」という考えに怒りを持っても、親や周りの人たちは、「それが世の中だ」「長いものに巻かれたほうが生きやすいんだから」としか言わなかった。

確かに、何かに反論するには、それ相応の確固たる思想と、その思想を最後まで持ち続ける責任と忍耐が必要だ。

だけど、私だって心折れる時や疲れる時がある。それでも反論し続けられるのかと聞かれれば、答えはNOだ。だけど、信頼していた友達に裏切られて、悲しい思いをしたり、寂しい思いをしたり、未だにトラウマに苦しめられている身としては、「自分さえ良ければ他人なんかどうでも良い」という考えにはなれないし、その考えが嫌いで憎くて仕方なかった。

それを、はるか400年以上も前の人が肯定していたこと、そして、私がそのことを話すと、考えを受け止めてくれた女子部のメンバーがいたことが私は嬉しかった。そこで、ようやく長年の傷が癒えた気がした。

 

「オリンピックはやるのに自粛はさせるのか」という言葉は、一見すると、確かに正論のように見える。

だけど、オリンピックはやっても、会場外の私たちが自粛を頑張ることで、会場外の誰か、は守られるのではないだろうか。オリンピックに参加している人は守れなくても、参加していない人同士は。そして、その人、というのは、友達だったり、自分の会社の人たちだったり、かかりつけの病院のスタッフや、近所のスーパーの店員さん、行きつけのレストランの店員さんなど、少なくとも必要最小限、自分にとって、なくてはならない人たちな気がする。

オリンピックはやっても、自粛をしなければ、友達が感染して命の危機に瀕するかもしれない。かかりつけの病院に行けなかったり、スーパーが閉鎖されたり、好きな時にレストランに行けなくなって、不便になるかもしれない。

学会が言う「眼前の1人を大切に」とは、このことではないだろうか。

そして、これは私の考察になるが、今年1年、学会がやたらと立正安国論を取り上げたのは、まさにこの「オリンピックはやるのに自粛はさせるのか」という屁理屈を破釈するためではなかったのだろうか。

だって、立正安国論にはこうある。

 

汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か、と。

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