結井はなぜ不登校に? vol.2
こんにちは〜(^^)
まず最初に、ごめんなさい!
昨日更新する予定だったんですけど、面倒でどうにも手が進まなかったのと←
昨日はある本に見入っちゃってずっとそれを読んじゃってて、書けませんでした。申し訳ありませんでした。
このブログ、まだ開設して1週間くらい?も経ってないのに、アクセス数がただいま63人!
本当にありがとうございます❣ また頑張って更新していきます!
さて、前回は…、
次に行くところもなく無職になりそうだったところを、学会の折伏の親に支えられて無事に転職を勝ち取った。
んですよね。
しかしその職場は因縁の愛知県だったのがネックでしたが…。(何が因縁だったかは前の記事を読んでね)
その後私がどうなったかというと?
「死にたい…」と涙ながらにその折伏の親の属していた地区座談会で言うのがやっとでした。
仕事が始まってからしばらく土日は、折伏の親に会ってほぼ大泣きの日々でした。
泣くために会っていたのかもしれないくらいです。というのはね…。
もちろん、これを自分で選んだのだから、責任はすべて私にあるというのは重々承知です。
でも、この年働いた学校の勤務は、まじでしんどかったんです。
多分今私が不登校になった原因の5割から6割くらいは理由を占めてると思う。
それくらいきつい仕事でした。何がって、それはさ。
学科が自分の専門じゃないから、教えられることが何一つない。
前回の記事の最後に、建設科、って書きましたよね?私。
もう一度書きます、建設科。
私の専門は機械です。つまり、全くの畑違い。
これまで、旋盤で機械加工やら、機械設計で回転数がーだの仕事率がー、安全率がどうのこうの、とか、原動機でエンジンがどうのこうの、だのやってきた人間が、建設科で建築製図やら土木の測量やらコンクリートの材料試験だの…。
できるかッ!(コウメ太夫風に)
しかも部活が、まさかの建設技術部。これはどういう部活かというと、建設科の先生と一緒に建設工学のこと…つまりは建築とか土木について、より深く勉強していく部活なんだよね。
だから、測量やりたい子は測量の実技練習したり、木材加工やりたい子は実習室で木材加工したりとか。
資格取りたい子は資格の勉強したりね。
幸い、土日祝日は休みだったけど、私にはきつかった。
だって、朝学校に来たら、授業部活と建設だから、帰るまで建設漬けだもん…。そりゃ泣くわな。
しかも私は自閉症スペクトラム持ち。これが悪さした。
自閉症スペクトラムの症状の中でも、薬にも毒にもなる、「ある特定の分野に対して尋常じゃない記憶力や興味、関心、集中力を持つ」「特定のことに関して著しくこだわりを持つ」私の場合は多分、「機械工学」というのもこの中に入っていたのかもしれません。機械工学に関して、記憶力はそんなにありませんが…。こだわりはかなり強かったと思います。というのは、自分が大学で苦労しながら勉強したから、思い入れが強かったんだと思います。(そのあたりのこともいつか書きますね。)
そのこだわりと、自分の好きなものがすべて奪われたこと、仲良くしてもらっていた岐阜の学校の人たちや生徒たちとの別れの悲しみや寂しさを、自分で処理する方法が分からなかったんだと思います。
というのも、私は大学に入るまで友達がいなくて、(本当)まともに人間関係を構築できた経験がものすっごく少ないのです。しかも、自分から人を切る人間だったので、寂しさとかあんまり感じない人間で、ほぼ初めてのことに心がついていけなかったんだと思います。
それと、他にもフラッシュバックに苦しんでました。しかしこれも、自閉症スペクトラムが絡んでいる。
しかもこれは未だ専門のお医者さんとか専門家とかじゃないと知ってる人はいないんだけど、
タイムスリップ現象、っていうのがあります。
これは、過去の嫌なことや恥ずかしかったことや、本人的にはひどく失敗したことが、本人の意思とは関係なく急にフラッシュバックしてしまうことです。
私の場合は、一度愛知県の学校でひどく失敗しているので、その時のトラウマもあって強く出たんだと思います。
だって、朝の職員朝礼やってる場所の雰囲気が似てるってだけでフラッシュバック起こったし、職員室の雰囲気が似てるな〜って思っただけでフラッシュバック起こったから。
毎日がトラウマ、実習助手という教員ながら教えられることがない、という悲しみ、岐阜の学校を出た悲しさや寂しさとの闘いでした。
毎日、嫌でも自分の無力さと向き合わなきゃいけなかったあの地獄の日々は、かなりダメージ大きかったです。
私って何か悪いことしたのかな?って考えたこともあります。
もちろん私は自動車科や機械科ですべて完璧にできたか、と言われればそんなことはなくて、できないことの方が多かったし、今思うと、何であんなこと言ったりやったりしたんだろう、もっとあの時、深く力を入れて頑張んなきゃいけなかったな、と後悔していることがたくさんあります。
それでも、それが理由だったとしても、この仕打ちは罰と呼ぶにも大きすぎた。
それが耐えられなくなって、しょっちゅう折伏の親の前で泣いていました。でも、学校では不思議と泣けなくて、胸に冷たい風がいつも吹き付けて、胸が凍ったように冷たかったのを覚えています。
見かねた彼は、学会の色んな人に会わせてくれました。
そしてよく言われました。
「今建設科にいることは、絶対に意味がある。何も無駄なことなんかじゃない」と。
「起こることすべてに意味があり、何も無駄ではない」私が好きな、彼の励ましの言葉です。
それは、彼が幹部を務める地区の方も仰られていました。
もっと言えば、御書にある、願兼於業(がんけんおごう)だと。
願兼於業、とは、本当は幸せになれるところを、苦しんでいる人たちを救うために、敢えて願って不幸で苦しい世界の中に入って、色んな人と苦労をしながら自分の生き方、振る舞い方で仏法の偉大さを教えていくことです。
つまり、この苦労は自分が願って飛び込んだもの。しかも、たくさんの人を救うために。
そして、この苦労を背負ったということは、必ず、今の建設科の、誰かを救うために私はいる、と。
将来誰かを、自分の経験から、救うためにいるのだと。
ちなみに、当時は願兼於業と言われても、ここまでは分かりませんでした。
一通り建設科で働いて、苦労した今があるから言えてるだけです。
そういった励ましや、折伏の親の奥様に勤行の経本と数珠を未入会なのにプレゼントしていただいたこともあって、私は親の目を盗んでは自室の壁に向かって勤行唱題をするようになりました。学会のイベントで、折伏の親のご夫婦や他の学会員の方々と勤行唱題をするようになりました。
願いはたくさんあったけど、いつしか私は「信心したい」と思うようになりました。
そして、5月も終わりに差し掛かったある日、学会のイベントがあって、(この時は記憶障害のピアニストさんのお話でした)話の内容に、自分が今までの生涯、努力を怠っていたことへの後悔から大号泣したあとのことです。
「自分を変えるためには、信心しかない。もう一度岐阜に帰るためには、もう一度会いたい人たちに会うためには、信心しかない」と思いました。
それに、芸能人の学会員もみんな言う言葉がありました。
「この仏法は、願って叶わないことはない」と。
それなら…。と思いました。そして、折伏の親に言いました。
「お守り御本尊様でもいいなら、信心したいです。信心させてください」
実は、岐阜を出ることになった、と連絡したあの時、彼が折伏の最中に「お守り御本尊でも信心できないかなと思って」と、ポロっと言ったことがあったのです。
「お守り御本尊」とは、手のひらサイズの小さな御本尊様です。
通常、学会員は、専用の仏壇に巻物の御本尊様、通称「御形木(おかたぎ)御本尊様」をご安置して信心します。が、私のように家がどアンチで家族の許可が下りず、内密信仰をする場合や、部屋が小さくて仏壇が置けない、など様々な理由で御形木御本尊様がご安置できない場合は、お守り御本尊様を持って信心することもあるのです。
それを望みました。すると、「いいよ」と承諾してくださったのです。
ちなみに、その後、親に信心の許可の話はできませんでした。未だに話してませんが←
でも、私は、「学会員の人と関わっている」と話したことはあります。
すると、両親は、烈火の如く怒りました((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
(ちなみに、信心しようとすると親が烈火の如く怒ったりして反対するのは、御書にも書かれています)
そのことを知っていた彼は、親にそういう報告ができていたことに鑑みて、入会を許可してくれました。
それから、別日にお守り御本尊様の話を馴染みの婦人部の方と折伏の親から聞いて、
2018年6月23日、土砂降りの雨の日、名古屋市内某区にある会館、私が教育実習のあとで彼の家に家庭訪問に行き、彼と奥様から学会カミングアウトされて、その時に連れて行かれたその会館で、私は創価学会に入会しました。
気づけば、未入会ながら色んなイベントでいつの間にか3年くらいその会館に出入りしていました。
その思い出の会館での入会勤行会。
いつも座談会で見る地区の人は、ほぼ全員。その他にも折伏の親のご夫婦の派遣先の地区の人とか、区の女子部の人も合わせて多分20人くらいはいたと思います。
めちゃくちゃ盛大な入会勤行会だったそうです。折伏の親の奥様、奥様のお母様は
マ ジ 泣 き 。
私もちょっと泣きそうになりました。そして、折伏の親は言いました。
「入会したことがゴールじゃない。これからがスタートだと思います」と。
実際、この日から怒涛のように信心の日々が始まったのでした。だって、その翌日にはまたその折伏の親の派遣先の地区の座談会にも参加したし、次の週から区全体の唱題会行ったし、女子部の会合も、本部幹部会の同時中継もガンガンに行きましたから笑
でも、仕事は楽じゃなかったんだよね。むしろ、環境はひどくなる一方。
さすがブラック業界と言われる建設なだけあるわ、と思いました。
というのも、皆さん性格悪すぎ。
偏見かもしれないけど、機械系の人って割と性格がおおらかで、テキトーなとこあるんですよね。
要は、稼働率8割もありゃオッケーっしょ(^^)、的な。
うまくいかないのが当たり前で、それをどう改良していくのかが問題。あと、効率よく仕事をすることとか、効率を非常に問う系統だと思うんですよ。整備系は、また別だと思うんですけど。
でも、建設は違った。
プライドがめちゃくちゃ高くて、自分の思い通りにならないと弱い人に当たり散らす人が多かった。
人柱が無いと、学科職員の精神の均衡が保てないところだったの。しかも人柱は職員だけじゃなくて、生徒も。
ちょっと浮いた感じの生徒とか当たられてましたね。
で、そのいじめの標的に、私はなったの。
女であること、味方がなくて孤立してること、専門外、要は、弱い。弱いのは、いじめにとって最高の条件ですからね。
訳わからない些細なことで叱られたり、ネチネチ言われたり。
気持ち悪かったし、めんどくさかったわー、てかウザかったわー、マジで。
まあ、その時のトラウマも、今不登校になってる原因の1つなんだけどね。
いじめのトラウマってマジで怖いですよね。でも、このトラウマよりもっと恐ろしいトラウマを私は抱えていたんだけど、それは近いうちに書きます。いやこれはマジで書く。
だって、そのトラウマが、自閉症スペクトラムを炙り出したきっかけであり、私が今の学校で不登校になった最大の原因だから。
で、そのいじめって、実に陰湿でウザいものだった。もうね、いじめられっこベテランの私にとって、
「うわ、出た(;´Д`)この愛知特有の陰湿さ、どらうぜえわ」←ど偏見すみません。
って思うくらいだったから。
しかも、何もできない中で苦戦していた中で、生徒から、「何もできないじゃーん笑」ってぼそっと聴こえるように言われたあの瞬間ほど、傷ついたことはない。しかも私は聴覚が優れているので尚更。
実は、生徒からいじめられる教員っているんですよ、一定数。
だから、はっきり言って、「生徒のために仕事する」なんてね、ふざけた幻想なんですよ。
もちろん、私が教えたほとんどの生徒は、学校を去った今でも大事な宝物のように大切な存在です。でもね、教員だって人間なんです。だから…
生徒全員が全員好きになんてなれるわけねえだろ、馬鹿野郎!
私だって人間だし、いじめられたら不信感も持つし、嫌いにもなるし、その中でも仕事だから何ができるか考えてできること精一杯やってんのに、やってもらって当たり前、先生なんだからなんでもできて当たり前みたいな風潮出すなよ、バアアアアアカ!!教員も人間なんだよ!
って思ってましたし今も思ってます。
そんな怒りを、悲しみを、堪えて、堪えて、堪えて、独りで抱え込んだ結果…。
私は2回目の不登校になりました。確か、夏休み明けすぐくらいだったかな?
でも、この時の不登校は、学校だけが原因じゃなかったんです。何と、学会も不登校に絡んでいたんです。
え?どういうこと?あんなに頑張ってたじゃん、学会活動…。と思うかもしれませんが、はい。
絡んでいたんです。
どういうこと?
理由は次の記事でッ☆