私の活動体験 vol.0
おはようございます。ブログ更新します。
それにしても、ブログって書くの相当体力と精神力が要りますね…。文の構想、表現を考えながら手を動かすので、すごく神経を使うんですよ。お腹も空くし。
これ書いたら、何か食べようと思います笑
さて、前回のあらすじ。
運良く次の学校の機械科常勤講師の座を勝ち取った私は、地獄の学校をあとにし、次の学校へ向かいました。
そして、そこではどうだったかというと…。
ものすごく幸せでした。毎日がものすごく幸せで、仕事が楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。
というのも、次の学校は、近年稀に見る、超ホワイト校だったのです(前任校比)。
配属学科が機械科だったこともあり、自分の専門をフルに活かした授業ができました。職員の人柄も良く、勉強したかったことをしっかり教えてもらうことができました。生徒たちも落ち着いていて授業もしやすく、部活も自分がやりたかった写真部。生徒や職員も気が合う人が多く、最高の職場でした。
もちろん、しんどい時や、自分の専門の学科故に、しっかりやらなきゃ、と大きなプレッシャーを感じることはありましたが、この1年は最高に幸せでした。もう、気分はミュージカルの主演女優さながら。
何をやっても基本的には上手くいきました…が。
一つだけ上手くいくか分からない事がありました。それは…
講師=任期が決まっているので、来年もいられるか分からない
ということです。
講師は年単位の契約で働くし、職場の正規職員の異動・退職・その他長期休暇で職場に欠員が出た時にお声がかかるので、来年も同じ職場で働けるかはほぼ運ゲーです。
そしてこの学校は私を大切な仲間として受け入れてくださったので、私には深い思い入れがありました。
どうしてもこの学校に残りたかった。でも、運命は残酷でした。
それに伴いまして…
お待たせしました!この記事を見てくださっている創価学会の皆様、ここからやっと学会関連の話も入ります!
未入会の方は「うげー、創価学会かよ…」とドン引きするかもしれませんが、申し訳ありません。
実は、この学校を任期満了日で去らなければならなかったことが、創価学会入会に繋がったきっかけなんです。
嫌だなと思ったら読み飛ばしてください。だいぶ下の、「すると、任期満了のあと4日前…」ぐらいから読んでください。そこからなら学会ネタはかなり薄いです。
校長から、来年はこの学校にいられないことを知らされた私は、後の折伏の親(学会紹介者)にあたる、大学時代の先輩に連絡しました。彼は私が大学生だったとき、教育実習で行った先の学校で私の指導教員をしてくださった方でした。出身大学や学科が同じだったこともあって、私はすぐに彼に信頼を寄せ、彼の温かい指導のもと、実習をやりきりました。どんなミスも笑ってフォローしてくださり、私の研究授業を心から褒めてくださいました。
そんな彼に、私は研究授業が終わったあと、ある相談を持ちかけました。その相談とは、
「卒業研究と採用試験対策の両立ができない」というものでした。
というのも、私が卒業研究で所属した研究室は、機械学科でもかなりクセの強い教授の研究室で、なかなか採用試験の対策に時間が割けない研究室だったのです。とか言いながら、影でコソコソ採用試験の対策してましたけどね。本当に日が迫ってきたときは、言い訳つけて、何日も研究室ブッチして図書館とかカフェとか家とかで勉強してました。本当にアホな学生だったと思います。
その相談に、折伏の親は真剣に乗ってくださいました。そして、ご自身の体験を赤裸々に語ってくださいました。
で、相談も、教育実習も終わったとき。
「家においでよ」と呼ばれました。(ちなみに彼は既婚者で、この時ご家族ともお会いしました)
「暇だし、行くか〜(^o^)また何か話し聴けるかな〜ルンルン♪」まあアホな大学生が考えることなんですけど。
それで、折伏の親のお家に家庭訪問すると…。
奥様と彼が温かく迎えてくださり、色んな話をしました。その時びっくりしたのが、私が小中とイジメられた話をした時。
「はあ?!ふざけんなよ!」奥様がマジギレしたのです。さっき出会ったばかりの人がイジメられたということに関して、全力で怒っていらしたのです。学会あるあるなんですが。
自分の友人の苦しみや悲しみ、怒り、愚痴には、人の悪口を言ってでもその人に寄り添うのが、学会精神です。
学会がすごいのはここ。一人の人を徹して励ますために、いつも全力なのです。
で、話を戻しますが、学会員に折伏(仏法のことや信心、学会のことを語ること。勧誘ではありません)された人ならみんな経験したことある、あのカミングアウトをされました。
「僕ら実は創価学会でさ(^^)」
えええええええええええええええええ(文字数
「良い人ってやっぱり何か裏あるんだよな…」このとき本当にこう思った。
しかもこの時、「これからさ、学会の開館で、仏法とか関係ないお笑いライブをやるんだよ。一緒においでよ(^^)」
流石にお世話になった先輩故に断れなくて、会館へ連行されました。
初めての会館は…
めっちゃ怖かった((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
というのも、当時の私は、会館の広い部屋に安置されている大きな仏壇が異様に見えて、それがすごく怖かったのです。新興宗教だしね。
しかし、その前でやってたお笑いライブは、男子部の人が有志でやってたんですけど、
網タイツ姿のオネエが無口の人の手品に魅了されるというストーリー。学会じゃなくてもシュールだわ。
今だったらめっちゃ笑えるんですけど、当時の私は((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル状態だったので、お笑いどころじゃなかった。
そのライブの後、初めて池田先生の指導を見ました。その指導は、創価学園(関西か東京かは忘れた)の子どもたちの修学旅行先に池田先生が訪れて、指導をされたときのものでした。
その時はまだ、「あれが池田大作先生よ」と奥様に言われても、いまいちピンと来なかったのですが、話している内容は、私が想像していた変な宗教の教祖様とは違って、本当に普通のことでした。
別に、宗教抜きにしても、言ってることは全くおかしくない。常識的なことでした。
内容は詳しく覚えてないけど、「親孝行しなさい」というようなことを仰られていた記憶があります。
しかし、私の恐怖は消えなかった。だって、その指導を見終わって下の階に降りた時、小さな和室から、題目三唱する声が聴こえたんだもん…。あれは、学会初心者には怖いと思う。あれも慣れるまでなかなか異質に見えちゃうもんね。
それからその後は、創価学会とは何かというVODや、創価学会の歴史に関するVODを見せてもらって、創価学会について学びました。その時の私は、
「へぇ〜、創価学会って学校の先生が作ったのか。(本当に小学校の校長先生が作りました)そりゃあ怪しくないし、基盤もしっかりしてるんだね」←何この上から目線
何だかすんなりと受け入れられている自分がいました。そして、帰りにお土産として、青年教育者の冊子(我が教育者に贈る、だったかな?)みたいなのをもらったので、後日読むと…。
「何これ!これ私が求めてた教育じゃないか!」しかも、仏法の話だけじゃなくて、教育学の偉人の話も引用してるし、すごい!(ちなみに、小説「新・人間革命」には、教育学の偉人の一人、ペスタロッチの話が出てくるよ)
と徐々に創価学会へ知識を深めるようになり、会館で行われる活動体験発表会や、本部幹部会の同時中継行事、座談会にも足を運ぶようになりました。地区の皆様方には、未入会なのにいつも大歓迎していただきました。
辛いときはよく折伏の親に電話しました。折伏の親の励ましもとても温かくて、自分に無理ないやり方で力が出ました。家庭訪問行ったとき、仏壇にデカデカと私のことが祈念してあったり、初めての採用試験落ちたとき、栄で一人で遊んでたら、彼や彼のご家族が出先から「栄に行く」って電話が来て、本当に一家総出で栄に来たのは、まじでビビったけど笑
このおせっかい力が良いんですよね、学会は。原田会長もこの前本部幹部会で仰ってましたけど、このおせっかいを、学会はずっとやってきたんです。
で、私、このおせっかいにだんだん慣れてきて、池田先生の指導も、活動体験も色んな人のを聞いて、学会は悪いところではないってのは分かるようになりました。この折伏の間に任用試験もやりました。でも、「早く信心しようよ」と言われても、ぶっちゃけ私には無理でした。というのも、実は学会。入会する時にはいくつか条件をクリアしないと入会できません。
でもその条件は、決してお金に絡むものではありません。
要は、創価学会に関して正しく知識を持ち、一生涯信心を貫けるかどうか。
そして、家族に信心することを理解、了承してもらったかどうか。
一家和楽を学会精神に掲げる学会だからこその条件です。信心するにあたって、家族の理解や了承なく、家族のことを顧みずに信心することは、学会では決して良い事だとは思われていません。
家族を大事にすることも、学会ではよく言われます。
で、うちは両親ともに学会どアンチの無宗教家庭。創価学会って言っただけで怒り狂う親です。
まあ、信心することを親に反対されるのは、御書にも載ってるんですけどね(;´∀`)
それで私は、平行線で、学会の理解者として生きていこう…と思っていたんですが。
この時の電話で、ヘラヘラしながら今後のことを適当に話す私に(やっと話が戻った)、折伏の親。
これまでにない猛烈な勢いで折伏。
でも、この頃から、彼の折伏がストンと心に落ちるようになったのです。
日が経つにつれて、段々と信心の必要性を感じることになりました。
気がついたら、親が寝静まったあとに壁に向かって唱題してました。
また、大白蓮華や青年活動体験の冊子も貰って読みました。その活動体験や、池田先生の励ましに勇気をもらう日々。でも、別れへのカウントダウンは迫ってきました。合間に離任式があり、たくさんの先生からプレゼントや励ましをいただき、写真部からは寄せ書きをいただきました。余計離れるのが辛くなりました。
でも、きっと次が来ることを信じて、コソコソ唱題を重ねました。
すると、任期満了のあと4日前、奇跡が起こりました。
愛知県のとある工業高校の電子機械科の非常勤講師のお声が掛かったのですが、その学校に詳しい話を聞こうと電話したら、そこの管理職が何と!
自分の学校に人が足りないのを押しのけて、他の愛知県内の工業高校の建設科の常勤実習助手の求人を持ってきたのです。畑違いに戸惑いはありましたが、常勤の方が社会保障が充実している、とその常勤実習助手を募集している学校の教頭に押され、あれよあれよという間に面接の日が決まりました。
それが嬉しかったのと、ここで唱題しなければ、という謎のプレッシャーから、私は折伏の親の奥様に連絡し、ダメ元で「唱題してもいいですか?」と聞きました。すると、「いいよ」とまさかのOK!
すぐに荷物をまとめて家庭訪問し、訳を話しました。そして、折伏の親や奥様と勤行唱題しました。
ちなみにこの時、初めて勤行を体験しました。初めてだった割には結構読めてたと思います。
その次の日、面接を受けに次の学校へ行きました。結果は即内定。というか電話の段階で内定は出ていたと思います。非正規だし。高校教員の中でも特に工業は、いつも慢性的人員不足だし。
で、私は岐阜県から愛知県に帰り、3校目の学校に滑り込みで常勤助手となって働くことになったのでした。
が、しかーし!先程私の新しい学校は愛知県、配属学科は、建設科、と言いましたよね。
実はこれが、私の2回目の不登校を誘発した、死の組み合わせだったのです。
なのでここから言える教訓は、
次の行き先の学校がない、という講師は、民間就職を探したり、専門学校に通ったりして資格を取るとか、他にやりたい仕事を考えておく。ってことと、急に求人が来ても、合わないと思ったら素直に断る。ということですね。
え、何で断るかって?死の組み合わせってどういうこと?とお思いのあなた。
次回、乞うご期待!
追記
ほとんど学会ネタになっちゃってごめんなさい。